みちのく路をぶらり散歩・・東北スポット等を手前味噌で紹介します
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皆さんの地域では自慢の「伝承郷土芸能」、いくつかあると思いますが・・

東北みちのくの個性的伝承郷土芸能と言えば、鬼剣舞、鹿踊りが有名ですね。
各地によって、衣装と振り付け等違いはありますが・・・
太鼓とお囃子の勇壮な打楽の乱舞で、より一層見る人心を魅了させ、
十二分に引き寄せられます

そんな中で、みちのく仙台の伝承郷土芸能の一つに「すずめ踊り」というのがあります
太鼓とお囃子、そして踊る小雀、親雀の表情が楽しさ一杯の乱舞です!
今年で6回目を迎えたとのことですが、何と!何と!52団体がそれぞれ工夫を
凝らした振り付けで披露してくれる、見ごたえ十分な乱舞です!
今年は、7月27日(日)に開催され、私もそれではと、いそいそと出かけてきました

由来はといいますと、今から400年前の慶長1603年、仙台城新築移転の儀式の後の
宴席で大阪堺市出身の石工(石垣作りの職人)さんが、伊達正宗公の御前で即興
披露した踊りがはじまりと言われています。
伊達家紋が「竹に雀」であることから「すずめ踊り」と呼ばれ、以来石工の子孫により
伝承されてきたが、近年市民の間にも広がり祭連が創られるようになったとの事です。

それにしても、多くの方によって伝承されてきた伝承郷土芸能!
感動しますね♪踊り子の表情がすがすがしい!

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こんにちは?管理人のpagyです(^◇^*)/ 
日本人のルーツにみなさんご興味ございますか?

遺跡資料の博物館に足を運ぶと「縄文人」「弥生人」の私達ご先祖様の
生活スタイルなどをよく見かけると思います。
「へ〜!」これが私達のご先祖様ですか( ̄〜 ̄;)??

日本人は、世界でも最も歴史好きの国民だといわれています。

たぶんに、それは多くの謎に満ちているからだと思います。
歴史上の出来事、現象など、いつ、どこで、だれが、なにをどうしたかについて、殆んど満足な解答が得られる事が稀なのですから・・・・・

断片的ではあるものの、私もその謎の多い歴史をを読みながら、記事を書いてみました。
読めば読むほど解らない?・・・実感ですねー!

それでも、この不思議な謎に満ちた歴史の断片的であれ、総体的であれ、誰にも迷惑をかけずに空想するのも楽しみ方の一つかもしれませんね

あたり前の事ですが、日本人は、凡そ似た顔をして、地域差によって方言はあるものの、同じコトバを使っています。

■そこで、その民族のルーツをさぐって見る事にしました。

日本人は単一民族と思われがちですが・・・現に殆んどの方がそのように思ってると
思います。

それでは、典型的な日本人の顔の定義ってあるんでしょうか?

ある人は、やや四角形の顔で眉が濃く、目は大きく二重まぶたである
ある人は、面長で、頬骨が張り出して、眉毛が薄い。そして目は細く一重まぶたであるという。

前者は、南方系モンゴロイドであり、後者は、北方系モンゴロイドである。おそらく縄文人は南方系モンゴロイドで、その子孫は、後に渡ってきた北方系モンゴロイドの弥生人と混血したに違いありません。群馬県の岩宿遺跡によって旧石器時代人の存在が証明されています。

よって、現代日本人は各地から渡来した人種によって構成された民族であるといえると思いますが、いかがでしょうか?

■それでは、「縄文人」とは、どんな文化を築いたのでしょうか?

縄文人のイメージは、大半の方が「不安定な狩猟採集の半定住生活にあけくれ、腰藁や毛皮を着て、その日暮し」と、こういうものでしょうか?

平成六年に一般公開された「三内丸山遺跡」は、軟弱な地盤に直径1Mもある栗の柱を6本も使用し、微妙に支えあう角度をつけて建てられた大型の堀立柱建物である。元の高さは16Mもあると推定され、高度な土木技術とその技術を運用できる社会組織があったといわれております。

ニュースで報道され記憶に新しいと思いますが、最盛期は前3千年頃の縄文中期とされています。そこは、推定五百人前後の集落規模で「農業のない縄文時代に都市などない」と考えてきた多くの研究者を戸惑わせたとの事です。

住居跡は総数で六百棟、少しづつ時期を変え立替し続けられていた。
また、南北で約70、東西で約60Mに及ぶ盛土遺構にトレンチを入れると、最高で4Mの厚さに土や土器、焼き土が堆積し、継続的にはほぼ1千年間で形成された空前の規模のものだということも判明した。

遺物は、土器、石器、木製品など四万点を数え、加えて巨大な建物跡、墓群なども検出されました。

また、一般的に、縄文遺跡は大方東日本に偏って分布しているといいます。当時、それ程「住みやすかった」のでしょうか?

それについて、山内清男氏は、東日本の方が木の実がたくさん採れ、鹿やイノシシも東に多く、また、サケ、マスが豊富に採れた。縄文人はこれを重要な食料資源として利用していたはずであるから、人口も多かったとする「サケ・マス論」を説いている。現状では、東日本主導で発達したと考えられているとの見解を述べてます。

■「弥生人」についてはどんな説があるのでしょうか?

いつの頃かははっきりしないが、渡来系弥生人によって、稲作を中心とした文化を生み出します。この稲作文化は、北九州でまず起こり、その後6−700年の時を経て日本列島に浸透していきます。

そして、この稲作文化は、部族単位の集落をつくり、共同体をつくり、社会的な支配関係が成立していきます。そして古代王権へと繋がっていきます。

そういう過程を経て、つまり、縄文人及び弥生人の混合によって現代の「日本民族」に至っていると考えられています。



(※資料:主婦と生活社「不思議日本史」)引用


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中尊寺参堂入口

2008年!皆様の飛躍の年でありますようにお祈りします♪

きまぐれpagyのぶらり散歩・・・
「みちのく」って「のんびり」「爽やか」「のびのび」できるいいところですヨ♪
少し、みなさん!ぶらりと散歩してみて下さいね〜

とくに、奥州平泉はかつては黄金文化で栄えた
「夢の跡 江刺の里か 衣川か 百年一時 今なお黄金の 藤原の謎」 (自作)
そんな風景がここを訪れる人を感動させる小さな町です

現在「世界遺産登録」に向け躍進中です!
皆様の暖かいご声援を宜しくお願い致します


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芭蕉と曽良の旅イメージ画(※渓月画)


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松島五大堂(※「松島や 鶴に身を借れ ほととぎす」-曽良句)

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■ちょっくらコラム

松島五大堂は、東北地方でもっとも古い「桃山建築」と言われ、松島のシンボルとなっています。この五大堂の由来は、一説には慈覚大師が、五大名王像を安置したことから呼ばれるようになったとか・・・・現在の建物は、伊達正宗公が再建したものと言われています。
島に架かる赤い橋ですが、「縁結び橋」といわれる縁起橋です。
なるほど・・・往来カップルも多いですヨ〜・・・
と、時は江戸、曽良と芭蕉の二人は、白河の関所を潜り抜け、ここ松島にたどり着いた。
「松島や ああ松島や 松島や」と見事な景観に絶句(^っ^)!


■芭蕉のおくの細道 宿泊道程


元禄二年(1689年9)
3月10日 日光山の麓に泊まる。宿の主人は「仏五左衛門」という。芭蕉達は「私たちのような乞食僧をとめてくれるとはありがたい」と恩義を感じるが、主人のことを剛毅朴訥に近い人物と評し、正直な心を書きとめている。

4月上旬 那須野の農家泊。翌朝、芭蕉達は放し飼いの馬を無理に所望する。馬を借りる事は成功するが、「適当な場所についたら馬を返して欲しい」と念をおされ子供に馬を返すことになる。


4月?日 黒羽の「館代浄坊寺何かしの方」に泊


4月下旬 須賀川の等窮という人物のところに4〜5日泊。


4月下旬 福島に泊。


5月1日 飯塚泊


5月上旬 仙台泊。旅宿に4〜5日逗留する。画工の加右衛門という人物と知合い、方々を案内してもらう。


5月12日 石巻泊。賑やかな港町で生活に豊かさを感じるのだが、芭蕉達はことごとく宿泊を断られている。「暫くまどしき小家に一夜を明かし」迷いながら道を進んだ。そして平泉へと歩を進める


5月?日 岩手の里に泊。そして問題の関所にさしかかり、関守にあやしめられ、その後三日間風雨にあって山中にとどまる。


5月?日 尾花沢の清風という者の家に泊まる。長旅の労をねぎらわれ、大いにもてなされる。


6月3日 羽黒山に登った後、南谷の別院に泊まる。


6月?日 酒田の渕庵不玉という医師の家に数日滞在する。
7月15日 金沢で大阪商人・何処という者と旅宿をともにする。
?月?日 山中で腹を病んだ曾良と別れる。曾良は伊勢国の長島に知人がある為そちらに身を寄せることになった。
?月?日 大聖寺の城外、全昌寺に泊。
8月中旬 福井では、等栽というかつての知人の家を訪ね、二泊する。
8月14日 敦賀の津に宿泊。二泊する。


8月16日 同地の法花寺に泊まる。その後、馬に乗って大垣に入り、伊勢にいた曾良と合流。9月6日に伊勢へ出発するまで、同家に逗留する。



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 多賀城跡 政庁解説図

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 多賀城跡 政庁解説図


■遠の朝廷(とおのみかど)国府多賀城(1)

多賀城は、奈良・平安の時代『遠の朝廷』と呼ばれた東北の中心地でした。

アクセスはJR国府多賀城駅を下車し、北西の方向に位置し南門には、「壷の石碑」「芭蕉句碑」そして更に北へ500M位所に「多賀城政庁跡」があります。周辺南側付近は、「東北歴史博物館」、「多賀城廃寺跡」があります。
ここ多賀城跡は、江戸時代から注目されていたが、本格的な発掘調査に鍬入れされたのは、昭和三十八年からだといわれています。それ以来、今でも調査は続行中です。

多賀城は、陸奥国衙(国の役所)であって国司が常駐していました。また、他国と違って令外(りょうげ)の官(令に規定されていない官職をいう)として、陸奥出羽按察使(あぜち)と鎮官という官職も設けられていた。
陸奥出羽按察使は、陸奥・出羽両国を国主よりも大きな権限をもって統括する行政官をいいます。九世紀前半には実質的な意味を持たなくなります。

鎮官は、鎮守府将軍以下の武官で、多賀城が創建された720年代に置かれた。延暦二一年(802年)には、胆沢城の造営に伴なって同城に移り周辺の奥郡を支配する行政、軍事の府に変化します。

多賀城の創建年代を記している史料は、唯一多賀城碑(壷の碑)だけである。丁度私が立っている場所が南門跡になっており、この場所に建っており、現在は覆い堂の中にひっそりと佇んでいます。
それによると神亀元年(724年)に建置したと記されています。(おそらく工事完成の年次と見るべきと思う)

日本三古碑の「壷の碑」(多賀城碑)の隣近くに「芭蕉句碑」が建てられています。アクセスは、JR国府多賀城駅下車し北側に向かい徒歩で500M位のところに位置しています。

この碑文には、多賀城の創建年月の他、平城京や各国境からの距離と、修造にかんする記事などが刻まれています。一時、歌枕「壷の碑」との関連性がないことから論争が巻き起こりますが、近年多賀城研究所跡地調査によって奈良時代に建立された真碑であることが確認され、平成10年に国の重要文化財に指定されています。

この小高い丘から、東方向に松島湾、西から南にかけて仙台平野が開け、北方向にはみちのく山河を見ることができます。
石段を登りながら、悠久の歴史の流れる風に誘われて万葉街道に思いを馳せます

この跡地の規模は、周囲4KMに及ぶといわれ、丘陵上の平坦地に諸施設の跡地を見ることが出来ます。東北の古代城柵の中では、紫波城(盛岡市大田 803年建造)と並ぶ最大の規模といわれています。

この跡地を散策するに及んで、周囲の美しい景観が最高です。
なるほど・・・芭蕉が・・・王朝の人々が・・・憧れる!・・・「時を越えた出会い旅」・・・楽しみましょう!

閑静な住宅地を過ぎて、小高い丘の南門、秋風を受けて周囲の展望も見渡せます。
更に石段を上ると多賀城政庁跡が鎮座しております。




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多賀城跡(政庁跡)

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多賀城跡 南門復元図

■国府多賀城跡 壷の碑は語る・・・

多賀城は、奈良・平安の時代『遠の朝廷』と呼ばれた東北の中心地でした。

周囲4KMに及ぶといわれる跡地の一角である「南門」に立っています。
美しい自然に囲まれて、小高い丘が当時の「物見台」の役割をしてたように見受けられます。
この同じ場所に、大伴家持・坂野上田村麻呂・藤原実方・源頼朝・芭蕉・正岡子規が立っていた・・・

そして、そこには日本三古碑の一つといわれる「壷の碑」「芭蕉句碑」があるというので早速現地を訪ねます。アクセスは、JR国府多賀城駅下車し北側に向かい徒歩で500M位のところに位置しています。

南門跡のすぐ近くに古い覆い堂のなかにひっそりと「碑」が立てられています。
この石碑(厚さ20CM位、高さ約2M、幅約1M弱)は、暫らくの間土中に横たわっていたようです。そして近年になって、まるで眠りから覚めたように、現代の私たちに語りかけているように感じられます。

この碑文には、平城京や各国境からの距離と、多賀城の創建、修造にかんする記事などが刻まれています。一時、歌枕「壷の碑」との関連性がないことから論争が巻き起こりますが、近年多賀城研究所跡地調査によって奈良時代に建立された真碑であることが確認され、平成10年に国の重要文化財に指定されています。

この碑に刻まれた「銘文」の概略をみてみましょう。全文141文字で刻まれています。

多賀城の位置

京(奈良の平城京)より一千五百里、蝦夷国(東北地方北半地域)境より一百二十里、常陸国(現在の茨城県)境より四百十二里、下野国(現在の栃木県)境より二百七十四里、靺鞨国(まっかつこく)(現在の中国大陸沿海州)境より三千里 
 ※奈良時代の一里は約535Mです。

多賀城の創建

神亀元年(724年)に大野東人によって多賀城が始めてつくられた
この東人は、奈良時代のはじめに設けられた地方政治を取り締まる上級役人で出羽をも管轄したといいます

多賀城の修造

天平宝字6年(762)に藤原恵美朝カリ(フジワラノエミアサカリ)が多賀城を大改修した
このアサカリという人は、当時の大納言・中納言に次ぐ重職で、臨時に設けられた地方軍政官であったといいます。

碑の建立年月日

天平宝字6年(762年)12月1日にこの碑が建立された。

驚くべき点は、当時の海外交渉の一端が垣間見られる、靺鞨国(まっかつこく)からの距離も記録されている部分です。

丁度その頃、渤海国(ぼっかい)が出羽国に来航していた時期で、天平宝字の頃は「続日本記」にも朝カリが陸奥桃生城と出羽雄勝城とを熱心に構築した時期で、彼の父宰相恵美押勝(さいそうえみおしかつ)でした。その押勝は新羅(しらぎ)との対抗上渤海と通常の外交のみならず軍事的結合を強く求めていた時期であったそうです。

多賀城の管轄下にある出羽秋田城は、渤海使と折衝する中央政権最先端の城柵官衙だったそうです。そういう背景もあって、多賀城に出先機関を置く奈良朝の中央政権にとって、明確に認識し標記しておくべき重要不可欠な事だったと一説にあります。

また、記録されている「蝦夷国」は、中央政権から「胆沢の賊」と呼ばれる人々の天地であった


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私pagy、みちのく東北を愛する岩手平泉の出身です。
のんびりテンポの大地は、都会の忙しさを忘れさせてくれる一時の癒しスポット。
本業は派遣社員のOLです。記事UPは、暇が出来た時の気まぐれです・・・・
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趣味は渋〜い書&画です。最近水墨画に興味深々です。
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